New!第36回
「河西回廊と文化交流」
シルクロードの中国側で敦煌などを抱える河西回廊をまわってきた。猛暑がようやくおさまって少し朝夕に涼しさが感じられるようになった9月下旬、現地では最低気温が10度を下回る日もあったが、しのぎやすく快適な1週間だった。
河西回廊というのは黄河の西の回廊を意味し、北の砂漠と南の祁連山(きれんざん)の間に挟まれた細長い平野で、古来、人と物の往来が盛んだった。上海から飛行機で3時間近く西に飛び、降り立ったのは甘粛省の省都蘭州。回廊の東部にある。空港の入口には「加強文化交流」という標語が掲げられていて、この地はずっと文化交流の地だったことを思う。インド人を父とし、インド発祥の仏教典を漢訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)も、インドにわたって仏教を学び、帰国して同じく経典を漢訳した玄奘三蔵も、河西回廊経由で文化交流をはたした人物だ。
この町を潤す黄河の水は周辺の粘土が流れ込むためか、やはり黄色く濁っている。近年まで氷の張る冬以外、川を渡るのには船が必要だった。このため内臓を取り去った羊の皮をいくつも浮き輪にして取りつけたカヌー羊皮筏子が利用されていたといい、ここにも中国人の発明の力量を感じる。川端の公園にはその復元されたものが展示してある。ようやく20世紀の初めになって、西欧から鉄橋の技術が導入されてアーチが連なる橋が架けられた。黄河第一橋といい、今日でも現役で、渡る人が多い。
蘭州にある甘粛博物館を覗いた。この博物館の目玉の一つは彩色土器だ。紀元前3千年に近いころの作といい、形の整った一抱えもある土器の鉢に赤や茶の色が塗り分けられている。日本の縄文時代と重なる時期に全く違う意匠の土器がつくられていたことから、縄文がむしろ日本に特有なものに見えてくる。
このあたりは蘭州牛肉麺という食べ物が有名だ。イスラム教の人が多いため豚を避けて牛が使われ、あっさりしたスープも麺もうまい。丸麺や平麺のほかマカロニ状の麺もある。これはシルクロード経由でイタリアへ渡った原型ではないか。
蘭州から夜行の列車で敦煌に向かい、念願の莫高窟を訪れた。千年近くにわたって、岩をくりぬいた洞窟に壁画や仏像がつくられ続けてきた。その数は7百を超え、発掘されたものは5百近く、うち公開されているのは6十窟といい、どれが見られるかは現地の管理事務所の指示で日ごとに代わる。製作は主に仏教の信者が寄進した資金で絵師や彫師が雇われ、丁寧に時間をかけて仕上げられていった。平山郁夫の模写で知られた観音像もある。時には僧たちが苦労の多い石窟を住居としていたといい、それが価値ある文化財の保全にどう働いたか、ガイドが詳しく説明してくれた。千年にもわたり製作が続いたため、壁画や石像の様式には変化が現れている。建造のピークは初唐で、この時代の様式が敦煌にまで及んだ東から西への文化の移動を示す。唐から異民族の西夏が支配していた時代になると、当然仏教色が薄れた主題が現れ、また、道教の影響も一部にあるという。
壁画の修復は古くから行われ、明代の修復も確認されている。問題は近代の修復で、化学染料が用いられたり、破損をあえて復元したものもあるが、現在ではできるだけありのままが図られている。
敦煌の後は、カルスト地形の谷を赤味がかった岸壁が囲む景勝の地、張掖丹霞(ちょうえきたんか)を訪れた。そそり立った奇岩にラクダ岩など様々な名前を与えているのは、漢字を発明した民族の知恵だろう。
(2025.10)
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